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東京地方裁判所 昭和37年(ワ)5370号 判決

原告

根岸市三

右訴訟代理人

前田知克

鈴木俊光

被告

巽自動車交通株式会社

右訴訟代理人

緒方勝蔵

主文

1  被告は、原告に対し金四、〇〇五、八八四円ならびに内金三、九七三、二三三円に対する昭和三四年七月一四日以降、および内金三二、六五一円に対する同年一一月一日以降各完済に至るまでの年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、これを二〇分し、その一を原告、その余を被告の負担とする。

4  この判決は、第一項にかぎり、仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、「1被告は、原告に対し金四、三六七、〇〇八円および内金四、三三四、三五七円に対する昭和三四年七月一四日以降、内金三二、六五一円に対する同年一一月一日以降各完済に至るまでの年五分の割合による金員を支払え。2訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

一、昭和三四年七月一三日午後九時一〇分頃東京都千代田区西神田一丁目六番地先路上において原告の運転するタクシー(第五く一一三八号。以下「原告車」という。)は訴外田中実の運転するタクシー(第五く四四二六号。以下「被告車」という。)に追突され、よつて原告は頭部および頸部に打撲傷を受けた。

二、(一) 被告は、訴外田中実の使用者であつて右事故は、同訴外人が被告の業務を執行するため、被告所有の被告車を運転していたときに生じたものであるから、被告は自動車損害賠償保障法第三条本文の規定により、原告の受けた後記損害を賠償すべき義務がある。

(二) もつとも被告は、右事故につき原、被告間に示談契約が成立し、原告の損害賠償請求権は消滅した旨抗弁するが、右事実は否認する。すなわち、

(イ)  被告主張の日時に、訴外福満己義と被告の代理人の訴外吉垣規矩治との間で自動車損害賠償責任保険金の限度で原告の治療費および休業補償費を弁償し、原告は、それ以外の賠償請求をしない旨の示談契約を締結したことは、認めるも、訴外福満は、右示談につき原告を代理する権限を有していなかつたから、右示談契約の効力は、原告に及ばない。

(ロ)  仮りに訴外福満が原告のために代理権を有していたとしても、右示談契約では原告の身体傷害による損害賠償請求権についてふれられていないから、右示談契約の存在は、本訴請求を左右するものではない。右示談は、事故当時におけるタクシー会社間の損害賠償問題処理と警察関係の刑事々件(物件損壊)問題処理を目的としたもので、原告の個人的な損害賠償請求権についてまで取りきめたものではない。右示談の際両者間において作成された示談書(乙第一号証)の文字のみからすれば、原告個人の問題も示談内容とされているかのごとくみえるが、右示談当時は原告の傷害程度が確定しておらず、治療中であつたのであるから、これを示談の対象とする状況になつたことは、明らかである。乙第一号証は、加害者と被害者の使用者であるそれぞれのタクシー会社の事故係である訴外吉垣規矩治と訴外福満己義が警察に書類を提出する必要上、会社同志の間の話し合いとして、取りまとめたものにほかならない。

(三) 仮りに訴外福満が原告の代理人として原告の損害賠償請求権について示談契約を締結したとしても、

(イ)  訴外福満および訴外吉垣は、ともに原告の傷害が軽微なものであると誤信し、これについては何らの争いもなく、原告の軽傷を前提として右示談契約を締結したものである。しかし、事実はこれと異なり、原告は自動車運転者として再起不能のような重大な傷害を受けたのであるから、訴外福満の意思表示にはその重要な部分につき錯誤があつたものといわざるをえない。従つて、右示談契約は、要素に錯誤あるものとして無効であるというべきである。

(ロ)  仮りにそうでないとしても、右示談契約は、昭和三四年一一月頃右代理人間において合意により解除した。

三、原告の受けた損害は、次のとおりである。

(一)  得べかりし利益の喪失による損害金四、〇九八、九七三円。

(イ)  原告は、前記事故によつて第一項記載のような傷害を受けたが、受傷直後はさほど重い傷害でないと思つていた。しかし、その後時間を経るにしたがい、身体の運動に障害を来たし、多くの病院で治療を受けたが好転せず、現在において頭部外傷による慢性頭痛症候群に属する両側性感音性難聴、両側常在性耳鳴の後遺症を残したまま治療不能の状態に立ち至つた。このため原告は、受傷後自動車運転手としての適格を失い、また将来再び自動車運転手として再起するのぞみも断たれた。

(ロ)  原告は、大正四年一一月一一日生れで、受傷前は極めて健康であつたから、もしこの事故がなかつたならば、現在各タクシー会社が協定している満六〇才の停年までは十分稼動できる筈であつた。ところで原告は、受傷当時訴外東京交通株式会社(以下「訴外会社」という。)に勤務し、年間平均手取金四二〇、五〇八円の収入を得ていた。従つて原告が前記傷害により受けた得べかりし利益の喪失による損害は、昭和三四年七月より原告が満六〇才に達する年である昭和五〇年一二月までの収入総計につきホフマン式計算方法により民法所定の年五分の割合による中間利息を控除した金四、〇九八、九七三円である。

(二)  治療費金三二、六五一円。

原告は、病院その他医者による治療費として立証しうるものだけで金三二、六五一円の支出を余儀なくされ、同額の損害を受けた。

(三)  慰藉料金五〇〇、〇〇〇円、

原告は、従来たずさわつて来た自動車運転技術以外に特別の技術を有せず、生涯をこの職業で過そうと考えていたにもかかわらず、前記受傷によりその希望を絶たれ、かつ日常生活そのものにいいようのない肉体的、精神的苦痛を味つている。しかも現代医学においては、これ以上の治療の方法なく、医学的には治癒したということで、結局一生不具者として生きねばならない。従つて、この精神的苦痛に対する慰藉料は、金五〇〇、〇〇〇円をもつて相当とする。

(四)  ところで原告は、前記事故により自動車損害賠償責任保険金一〇〇、〇〇〇円、訴外会社の給与規定に基づき休業補償費金一六四、六一六円、以上合計金二六四、六一六円の給付を受けたので、これを右(一)より控除すれば、その残額は、金三八三四、三五七円となる。

四、よつて原告は、被告に対し前項(二)乃至(四)の合計損害金四、三六七、〇〇八円および内金四、三三四、三五七円に対する損害発生後の昭和三四年七月一四日以降、内金三二、六五一円に対する損害発生後の同年一一月一日以降各完済に至るまでの民法法定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めめる。

と述べ、

証拠<省略>

被告訴訟代理人は、「1原告の請求を棄却する。2訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、

一、請求原因第一項の事実は、認める。

二、(一) 請求原因第二項の事実のうち、被告が訴外田中の使用者であつて、本件事故は、同訴外人が被告の業務を執行するため被告所有の被告車を運転していたときに生じたものであることは認める。

(二) しかし、被告は、昭和三四年八月一〇日その事故係である訴外吉垣規矩治を代理人として、原告の代理人である訴外会社の事故係訴外福満己義と交渉せしめ、同人との間で、乙第一号証記載のとおり「自動車損害賠償責任保険金の限度で原告の治療費および休業補償費を弁償し、原告はそれ以外の賠償請求をしない」旨の示談契約を締結し、昭和三五年三月一八日右責任保険金一〇〇、〇〇〇円を原告に交付したから、被告には何ら損害賠償の責任がない。

(三) 原告主張の(イ)要素の錯誤による右示談契約の無効および(ロ)合意解除の各再抗弁は、否認する。

三、請求原因第三項の事実のうち原告が(二)の治療費を支出したことおよび(四)の責任保険金一〇〇、〇〇〇円を受領した事実は認めるも、その余の事実は不知。

と述べ、

証拠<省略>

理由

一、請求原因第一項(事故の発生と受傷)の事実は、当事者間に争いがない。

二、そこで被告の損害賠償責任の有無について判断する。

(一)  被告が訴外田中実の使用者で、本件事故は、訴外人が被告の業務を執行するため被告所有の被告車を運転していたときに生じたことは、当事者間に争いがないから、被告は、特段の免責事由を主張立証しないかぎり、自動車損害賠償保障法第三条本文の規定により原告の受けた損害を賠償すべき責任を免れることができない。

(二)  しかして、被告は、免責事由として示談契約成立の抗弁を主張するので、審究するに、昭和三四年八月一〇日訴外福満己義と被告の代理人訴外吉垣規矩治との前で被告は自動車損害賠償責任保険金の限度で原告の治療費および休業補償費を弁償し、原告はそれ以外の賠償請求をしない旨の示談契約を締結したことは、当事者間に争いがなく、(証拠―省略)によれば、訴外福満己義は、事故の当時訴外会社の事故係として自動車に関する人身事故または物件事故については、訴外会社およびこれに勤務する運転手を代理して損害賠償の問題を処理する職責を有し、本件事故の時も原告の連絡を受け、直ちに事故現場附近に赴き、事故処理に当つたこと、ただその際原告には何ら外傷が認められなかつたため、前訴外人は、本件事故をもつぱら物件事故として、原告に生じた損害について被告間と交渉したこと、そして原告自身も右下顎部に痛みを覚える程度で、湿布でもすれば簡単に治療するものと考えていたから、別段右の痛みを訴えるようなこともせず、別の自動車で原告車を牽引して訴外会社に帰つたこと。そして翌日近所の医者の診察を受けたところ、東大か日大の附属病院へ行くようにすすめられたので、その翌日訴外会社に首の痛みのため休む旨届出で、東京大学附属病院整形外科に通院治療を受けたこと、そこで訴外福満も人身事故として被告の事故係である訴外吉垣規矩治と交渉することになつたが、訴外会社とは同業者でもあり、訴外人らに、本件事故について早く示談書をとりかわし、所轄の神田警察署へ届出ることを考えたので、そのためには原告の病状がどの程度のものか確認する必要があるし、某日原告を伴い、東京大学附属病院整形外科の担当医師に面会し、原告の病状を尋ねたところ、同医師は、原告のために現在電気治療をしているが、治療としてはこの程度のもので、あとは原告の治ろうという気持次第である旨告げられ、その結果同訴外人らは、原告の損害が二、三ケ月程の休養により完全に治療するものと考え、それなら自動車損害賠償責任保険金の限度で治療できるとして、同訴外人らの間で前記のような示談契約を締結したことが認められる。

右認定事実によれば、訴外福満は、原告の適法な代理人として原告の傷害につき前記示談契約を締結したものということができる。

(三)  ところで原告は、右示談契約の前提として予定した原告の傷害程度について代理人に著しい錯誤が存するから、右契約は要素の錯誤により無効である旨主張するので審究するに、前記認定事実と(証拠―省略)を総合すれば、前記示談契約は、被告の傷害が外傷を伴うものでなく、本人の気持次第で二、三ケ月の休養により全治する程度のものであることを前提とし、またその点については代理人に何らの争いもなかつたこと、ところが原告の病状は予想に反し、その後いつこうに好転せず、そのうち顎部にむくみや右肩および大腿部にしびれを覚えるようになり、原告は訴外会社に出勤しても、ごみ拾いとか風呂場の掃除等の雑用をする程度で、事故前のように自動車運転者として稼動することができなかつたため、東京大学附属病院整形外科における通院も昭和三四年一一月末頃でとりやめ、その後は慶応大学附属病院、東京労災病院、東京大学附属病院などを転々して、昭和三六年一一月頃まで治療を受けたが、どの病院でも医学的には治療の限界に来ているから、自宅で療養するようにと医師から申し渡され、原告は、自己の傷害が当初の予期に反して著しく重大であることを覚つたこと、その間原告は治療費の増大と病状の悪化に焦燥憂慮し、訴外会社の事故係である訴外福満および訴外桑原英作を通じ、被告に対し、治療費が前記責任保険金でまかないきれないから、何とかしてくれと申入れたのであるが、被告は、この事件がすでに前記示談契約の成立によつて解決済であることを理由に右申入れを拒絶したため、原告の不満は増大し、医師から不治の病いと宣言されたことの精神的不安と相まつて、何事にも万事短気となり、妻子に当りちらし、その結果生ずる頸部の痛みや頭痛、頸重感に悶々たる生活を送るうち、遂に訴外会社を退職することとなり、現在ではその退職金を資本として始めた妻の飲食店経営によつて生計を維持していること、しかして右のような原告の症状は、原告の右精神的不満乃至不安によつて惹起された外傷性神経症が、本件事故によつて生じた頸部の骨棘形成に悪影響を及ぼしていることがその原因であつて、従つて原告の傷害が将来において全治するという保証がないこと、その結果原告は将来再び自動車運転者として稼動することが不可能な境遇におかれていることが認められ、反対の証拠はない。

右認定事実によれば、前記示談契約は、代理人相互間において、原告の傷害が二、三ケ月の休業によつて容易に全治する程度の軽微なものであることを前提とし、その点につき何らの争いもなく締結されたものであるのに、事実はこれに反し、原告の損害が著しく重大なものであつたのであるから、原告の代理人である訴外福満の意思表示には、その重要な部分に錯誤があつたものということができる。しかもかような争いなき前提事実に右のような錯誤が存する以上、民法第六九六条の規定は適用されないから、前記示談契約は、原告の主張するとおり、要素に錯誤があるものとして無効といわなければならない。

そうすると、原告の本件損害賠償請求権は、前記示談契約によつて消滅したものということはできないから、被告は、自動車損害賠償保障法第三条本文の規定により原告の受けた次項の損害を賠償すべき責任がある。

三、そこで進んで本件事故による損害について判断する。

(一)  得べかりし利得の喪失による損害

原告が訴外会社に自動車運転者として勤務していたが、本件事故のため将来運転者として稼動しえなくなつたことは、前記認定のとおりであり、(証拠―省略)によれば、原告は大正四年一一月一一日生れで、本件事故の当時一ケ年平均金四二〇、五〇八円の純収入を得ていたものと認められるから、原告は、特別の事情がないかぎり、事故後なお一六年間自動車運転者として就労し、その間少くとも前記のような手間純益をあげることができるものと認むべきである。従つて、原告の将来得べかりし利益の合計は、金六、七二八一二八円となるが、これをホフマン式計算方法(単式)により民法所定の年五分の割合による中間利息を控除し、本件事故当時における一時払額に換算すると金三、七三七、八四九円(円未満四捨五入)となる。

(二)  治療費

原告が本件事故による受傷の治療費として金三二、六五一円を支出し、同額の損害を受けたことは、当事者間に争いがない。

(三)  慰藉料

前記認定事実と被告本人の尋問によれば、原告は、昭和三年三月群馬県立多々良小学校を卒業後、昭和五年頃上京し、住込店員として働くことになつたが、その後軍隊に入隊し、昭和一八年憲兵軍曹として除隊してからは、自動車運転者として働いて来たこと、そして事故当時は訴外会社に勤務し、妻子とともに幸福な生活を送つていたが、この事故のため前記のとおり自動車運転者として将来再び就労することのできない傷害を受け、遂に訴外会社を退職し、その結果、その退職金を資本として妻の始めた飲食店経営により家族三名の生活を維持することとなり、原告は妻から治療費をもらいながら自宅療養を続けているが、被告との間で本件事故による損害賠償問題が未だに解決がつかないため、煩悶の生活を送つていることが認められる。これらの事情を考えると、本件事故による原告の精神的苦痛に対する慰藉料は、金五〇〇、〇〇〇円を下らないものと認めるのが相当である。

(四)  ところで原告が受領したことを自認する本件事故による自動車損害賠償責任保険金一〇〇、〇〇〇円と休業補償金一六四、六一六円とを右より控除すれば、その残額は、金三、四七三、二三三円となる。

四、そうすると原告は、前項(二)乃至(四)の合計金四、〇〇五、八八四円の損害を受けたものということができるから、原告の本訴請求中、右損害金四、〇〇五、八八四円ならびに内金三、九七三、二三三円に対する損害発生後である昭和三四年七月一四日以降、および内金三二、六五一円に対する損害発生後であること一件記録に徴し、明らかな同年一一月一日以降各完済に至るまでの民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める部分は、理由があるから、正当として、認容し、その余は失当として棄却すべきである。

よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条本文、仮執行の宣言につき同法第一九六条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。(吉岡進 吉野衛 梶本俊明)

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